2008年8月 7日 (木)

■北海道の習慣2:七夕■ -Childhood-

七夕の日となると子供達はとても興奮するのです。ご近所を回るというこの日の大切な儀式があるからです。まず一つめに「誰と回るのか」というグループ決めがあります。仲良しで形成する場合もありますが、これにしっかりものの年長者の姉、兄が付かされることもあります。たいてい兄の場合は男友達に馬鹿にされて裏切ることが多いのですが。そして二つめは「どこを訪ねるか」です。この夜は各家庭を回って「あるもの」をもらうのですが、この受け渡しが円滑に進む家の情報を探らなければなりません。参加している子の家はほぼOK。大変なのは子供のいない家でこの儀式に好意的に参加してくれる家を見つけることです。中には怖いおじさまがいて玄関で騒ぐといきなり怒鳴られたりするのです。さて三つ目は「提灯」の準備です。ちょっとした文房具店や今で言うコンビニ的な雑貨屋さんでこの時期が近づくと売られます。半紙に原色のピンクやグリーンで半透明に着色され、ひごで作られたものです。蛇腹をぐぐっと押して柔らかな金属のピンにろうそくをさして火を付けるのです。七夕は花火とともに「火」を操れる特別な日です。で、お金を使わないグループもあります。「カンデラ」と呼んで空き缶に穴を開けたものを作るのです。釘で周囲に穴を開けて底に釘を打ち込みろうそくを立てます。缶の口に針金を通し、割り箸にくくって持ち歩くのです。こちらは多少ワイルドな参加方法です。さて、準備も終わり夕食を食べると子供達は歌を歌いながらくだんの家庭をグループで回ります。さてその歌詞は「ローソク出せー、出せーよー、出さないとかっちゃくぞー(引っ掻くぞ)、おーまーけーにくいつぞー」ってどう猛な歌です。これを声を合わせて歌います。ある意味、こういう悪い子の歌を大声で歌うことのできる許された夜なのです。もう分かったと思いますが、各家で出すのは「ろうそく」です。もらってもどうしょうもないのですが、この日の形です。最近ではお菓子をくれるところも多くなってきました。我が家では苗穂の菓子問屋で安く仕入れて夜に子供が来たら配っています。日本版ハローウィンってところですかね。Img_2345

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2008年7月11日 (金)

■路地と消えた文房具店■ -Childhood-

雨が降りました。ざんざん降って気持ちいい。久しぶりに聞く雨の音心を静めてくれます。地面を冷やして埃を洗ってきれいにして欲しい。7月ももう半ばです。早い早い。ふと見ると紫陽花が咲き始め、立葵が真ん中あたりまで花を咲かせている。変な天候が続くけど花の時間は夏を指しています。さて、私はとても「路地」が好き。札幌の場合は東京などと違って多少「広い」ので路地とは呼べないかもしれないけど。それでも建物と建物の間、とくに建物同士が裏口を向き合ったようないかにも裏通りのような所を見るとゾクゾクするのです。そこには何かありそうな、まだ発見していないお店や古い看板や標識に出会えるような気がするからです。子供の頃、祖父の家は小樽の緑町にあり、めったに一人で出歩かなかったのに、夏休みのある日ふらっと散歩に出たのです。小学校3年生だった私は建物に囲まれた道を歩いているうちに、いつの間にか見たことのない商店街にでました。そこにはお店が何軒かあり、そのうちの一つ「文房具店」に入りました。店の棚には大好きな自由帳がありました。並べられた幾つかの中に、当時はマイナーな人気の雑誌「少年キング」に連載されていたロボットを表紙にしたノートを見つけたのです。不思議な商店街で見つけた見たことのないノートは友達に自慢できると思い、すぐに購入しました。来た道を戻って家に帰り、祖父や母にそのお店のことを話しましたが、うまく場所を説明できませんでした。翌日もう一度行こうと思いましたが道が分かりません。そしてその後、小樽に行ってもそのお店を訪ねることは出来ませんでした。子供の私には不思議な場所に迷い込んだ買い物のように思いました。この感覚は今も消えることがありません。街を歩いて裏道や路地をのぞき込んだとき、いつもふとその時のことが思い浮かぶのです。直ぐ使ったノートとお店のおばちゃんと。Dsc02045

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2008年6月25日 (水)

■JRと汽車と子供の頃と■ -Childhood-

昔はJRを通学に利用した時期があって相当お世話になったにも関わらず最近の利用状況は無理して乗って年1回ってところです。江別や恵庭、少し遠くて小樽や千歳からの通勤・通学の足としてJRは利用されていて、昨今の札幌駅の人の行き交いは東京にある大きな駅の雰囲気に似てきました。子供の頃は祖父の家が小樽にあったのでいつもJRをに乗ったものです。そのころは国鉄でしたけど、そして「汽車」に乗るって言っていました。小さな頃は本当に「汽車」で煙を吐く蒸気機関車、SLが走っていました。覚えているのは「トンネルに入ったら窓を閉める」という決まりです。要するに黒煙が空に上っていかないのでトンネルこと「チューブ」の中が煙りだらけになります。煙突の中を進む感じと言ったらいいのでしょうか。窓を開けたら客室内が匂いと煙だらけになるのです。窓を開けて顔を外に出したときに、いきなり目の中に大きな煤が入って痛かったことを鮮明に覚えています。窓を開けるときは洗濯ばさみを横にしたような鍵が両サイドに付いていて、両方のこのレバーを押して持ち上げるようにするのです。車両によっては渋かったり、ぜんぜん開かなかったりでいろいろでした。その後は「ディーゼル車」になり、そしてクリーンな「電車」になりでいろいろでした。札幌から小樽に行くときは必ず「海はどっち」と聞くのです。行きは右側、帰りは左側です。進行方向で変わるので子供にはなかなか覚えられなかったのでしょう。当時のトンネルは海側がところどころアーチ状に開いていて、暗闇から青い空と海がパッパッとかいま見ることが出来るのがとてもエキサイティングでした。何も無い時代のディズニーのアトラクションみたいなもんだったのでしょうか。汽車を見るたびに交通手段の少なかった時代に幼い自分を海や祖父の家に良く連れて行ってくれたなぁと親に感謝の気持ちがわくのです。Dsc02083

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2007年12月25日 (火)

■Merry Christmas■ -Childhood-

小学校3年生の時に祖父と父がやっていた会社がうまくいかなくなり廃業となりました。それまでは毎年大きなプラモデルやおもちゃなど買ってもらっていたのに、その年のクリスマスは少し様子が変わりました。何が欲しいかというお願いには母の規制がかかるようになったのです。私は当時流行った巨大ロボットのシャンプー。プラモデルが買ってもらえなくなったので一番それに近いフィギュアはロボットの形をした容器に入った実用品でした。腕は垂直に体と一体化していて動きもなく、こけし状態でした。妹は毎月買ってもらっていた少女月刊誌「りぼん」。定期購読してもらえなくなって久しぶりの付録付きの雑誌でした。付録を組み立てる妹と黄色一色のシャンプーを見て、うちの様子が変わって金銭的に少し大変になったんだなと子供心に初めて身に染みた出来事でした。それでも家の天井には毎年と同じようにクリスマスの飾りを母が飾ってくれて電飾も光っていました。私はその前の年に大きなプラモデルと一緒に買ってもらったプラモデル塗料セットから少し硬くなった白と黒を刷毛で取り出して、ロボットに眼を入れました。自分の手にしたものに精一杯価値を与えたかったのです。冬休みになり、出かける父をバス停まで見送りに行くと、父は必ず二人に100円ずつお小遣いをくれました。見送った後に側の店でチョコを買って帰りました。コーヒー代が子供のおやつ代になっていたようです。そんな優しかった父も6年前に突然肺炎で亡くなりました。葬儀を終えてがらんとした家に帰るとちょうどクリスマス・イブ。私にとってクリスマスは家族が健やかで暮らしていることを確かめ合う大切な日です。毎年、親戚が集ってバイキングに行ったりするのもそんな理由です。Merry Christmas to You.Dsc00725

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2007年12月 1日 (土)

■12月はクリスマス一色■ -Childhood-

風邪が治らなくて2週間近く鼻をぐすぐすいわせています。そうこうしているうちに12月。今年は本当に早かった。あっという間。師走も早いので。もう明日にでも新年がやってくるのでしょうか。困ったもんです。12月になると街はクリスマス一色です。新聞のチラシにも「おもちゃ」や「プレゼント」なんかの広告が入ってくるので気分は盛り上がってきます。昨今はクリスマスが恋人達の日になってしまって、子供たちの夢の日が少し隅に追いやられたのがやや不満です。子供の頃はクリスマスが近づくと大人は子供のためにつくしてくれました。これは映画「三丁目の夕日」の通り。テレビも海外のアニメや歌を流して、特別な日が来た感じがしました。サンタのお話のクレイアニメ等、日本と違ってクリスマスへの思い入れが違う諸外国の作品は格が違った感じもしましたし、こういう日じゃないと見ることが出来ないという「スペシャル」感もありました。我が家はツリーではなく天井にモールや飾りをさげるのが習わしで、電飾も天井についていました。プラモデルの飛行機も下がるやらで大騒ぎ。一方で父がデパートに連れて行ってくれてプレゼントは直接購入してくれたので、サンタがプレゼントを届けるって言う設定は無かったですね。ただ、それは我が家の煙突が狭いので来ることが出来ず、両親が代行してくれていると思っていました。24日は子供や家族のための平和な日って言うのがいいなぁ。恋人同士の日って「夢」はあっても「夢」がないねぇ。Photo

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2007年11月27日 (火)

■うち遊びの色々■ -Childhood-

雪が降ったり止んだり積もったり解けたりのこの時期は子供は外では遊びづらいのです。たとえ晴れていても。それは地面が常に湿潤していてどろどろのぐちゃぐちゃだからです。公園やグラウンドなんかは歩くたびに泥が靴の裏にくっついて大きな足の裏が出来たものです。自転車も昔は冬に備えて物置の上の方や奥にしまわれてしまうので足もなくなってしまい、行動半径は一気に小さくなります。これで根雪になってあたりが真っ白になるとそれはそれで遊びようはいくらでもあるのですが。そこでうち遊びになるわけです。昔なら定番は「トランプ」。だいたい子供は「ページワン」「ばば抜き」「7並べ」の3種しかしない。少し大きくなって「大富豪」。このパターンはすぐ飽きるので「将棋」をするものもいるけど女の子はしないのでごく一部。人気は「五目並べ」。ノートに碁盤を書いてすぐできました。紙の端と端に船の絵を描いて鉛筆を滑らせていってその軌跡を魚雷にたとえた「魚雷船ゲーム」。この他は「あみだくじ」等。盤ゲームも昔は流行った。「ダイヤモンドゲーム」「すごろく」等々。テレビゲームのようにリアルな絵が動いたり音は出なかったけれど、すごく興奮してわくわくしながら熱中したものです。昔は何でも手作りでした。想像やイメージも自分の頭の中で「手作り」しました。今は大人が何でも完成品を作ってくれる。これって大人が答えをすぐに出してくれるものばかりって言うことかな。だから皆、答えを急ぐ社会になっちゃっていらいらしてんでしょうかね。夢想家の多い社会は平和な社会かもしれませんよ。Dsc00278

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2007年10月26日 (金)

■小さな冒険■ -Childhood-

私の場合、子供の頃は周囲も認める遊びの天才。なんかすぐにいろんなことを考えたようです。というのも本人は「遊んでいる」のだからさほど遊びを捻出するのに苦労していないのです。今でも一人遊びは得意とするところです。みんな私と遊びたがるけど、めんどくさいので先に一人で遊んじゃいますね。で、小学校入学前後はまったく空想と現実の境界が曖昧な子でした。宮沢賢治のように時々奇声を発して飛び上がるのに近い。それはある日の昼下がり。これから出かけるという時になって玄関に出ましたが、母は近所の方と立ち話を始めてしまいました。というわけで長時間手持ちぶたさになった男の子の目に止まったのが父の傘。すごく大きかったのです。体がすっぽり入る。そこでかねてより計画していたことを実行することにしました。テレビではアメリカの冒険ドラマが連続で放送されており、その中でパラシュートで降下する格好いいシーンをやっていたのです。小さいくせにパラシュートを開くひものことを「リップコード」って知っていた。閉じた傘を片手に塀によじ登り、そこで大きく開きました。頭の中では「フンワリーン」ってゆるーく着地する映像が浮かんでいたのです。傘は自分の物より何倍か大きいし、成功間違いなし。そして、「えい」と飛びおりました。しかしながら着地は予想に反して早かった。そしてなぜか動けなくなったのです。しかも痛かった。母があわてて近寄ってきました。この後予定通りお出かけになりましたが、行き先は変更、病院になりました。「股関節脱臼」うーん、冒険にリスクはつきものでありますが、なんの利益もなかった。その後もこの少年は数々の冒険をこなしたのであります。Img_3407

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2007年9月 7日 (金)

■幼馴染みのお父さん■ -Childhood-

幼なじみからメールが来ました。たわいのない連絡です。彼に会ったりメールなどの連絡が来るといつもその父親、おじさんの事を思い出します。中学生になった頃、二人を英語検定の試験を受けに市内の高校の会場まで連れていってくれました。当時、保護者の控え室があったのか、なかったのか覚えていませんが、おじさんが試験の間中ずっと外のグラウンドの土手に座っていたのを覚えています。二階で窓側の席だった私はグレーのコートを着て本を読んでいた幼馴染みの父親の後ろ姿をときおり見ていました。二時間近く土手に座り続けて待っていてくれました。試験の帰りに喫茶店で私たちはパフェをご馳走になりました。おじさんはソフトクリーム。コーンには金属の取っ手がついていました。おじさんはコーンを掴むことなく取っ手のままソフトを食べました。中学を出た後に検察庁に入り、苦労して役職のある地位まで昇った幼馴染みの父親。この日の生真面目で真摯な姿に少年時代の私はとても胸がうたれたことを覚えています。75を過ぎ、おじさんはまだ元気です。大切にするように一言添えて返信を送りました。Img_2593

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2007年8月19日 (日)

■小樽市青少年科学館■ -Childhood-

今日は小樽に行きました。伯父の墓参りです。なかなか親族の休みが一致しないので今日になりました。寺からの帰りに緑町にあった青少年科学館の前を通りましたが、あの見慣れたプラネタリュウムの銀色のドームがある建物が見つかりません。おそらく青少年センターのある建物がそうだったのかもしれません。家に帰ってからネットで調べると昨年に閉館して手宮の博物館と合併して今年から新たなスタートを切ったようです。子供の頃は祖父の家に行くたびに母に科学館に連れて行ってもらいました。玄関にはロボットがありました。なぜか母がこの玄関で椅子を出されて待っていたのを覚えていました。聞いてみると、あまりにも科学館が好きなので毎日のように出かけたそうで、それは、館長さんに「ぼく、また来たの」と言われるくらいだったようです。そこで、お金がかかるので母には椅子を出して玄関で待たせて館内には私だけが入ったようです。なぜ毎日行ったかというと、高電圧をかけて放電する様子を見ることが好きだったからです。昔の子供は空中に現れる光、そんなことだけが不思議で楽しかったのですね。祖父にはさらに料金のかかるプラネタリウムに連れていってもらいました。もう一度あの古い建物の中に入って子供の頃に戻ってみたかったものです。新科学館も行こうかな。Img_2581

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2007年8月15日 (水)

■夏休み -戦争の頃の話-■ -Childhood-

今日は終戦記念日です。父や伯父が子供の頃にはよく戦争の話をしてくれました。お盆になって親戚が集まると、伯父の「ごはん」に関して二つの話が始まります。ひとつは終戦の頃、中学生になりたてだったのにも関わらず授業はほとんどなくて工場に行っていた時のこと。小樽の味噌工場です。朝、祖母が大きなお弁当箱にお昼を詰めてくれたようですが当時の食糧事情では米ではなく芋やカボチャだったようです。午前の作業が始まり昼が近づくとトイレに行くふりをして、この弁当を食べるというのです。そして味噌を造るためにふかして敷いてある米をこの空になった弁当箱にぎゅうぎゅう詰めにつめこみ、そっと持ち帰ったそうです。これが家族全員の夕食。そしてもうひとつは遠農の話。ニセコの農家に数人と作業に行かされ、体躯的にいっても現在の小学校高学年くらいだったのでしょうが大変だったようです。草刈りやら畑作作業など、へとへとになって家に戻ると真っ暗な居間の中心にお膳が用意されていて、真っ白なご飯が山盛りに。「銀しゃりだ。」さすが農家、当時腹ぺこの少年達は久しぶりの米を夢中でかっ込みました。しかし、それは米ではなく麦混じりのひえやあわでした。腹ぺこで疲れた中学生でも喉を通らなかったようです。伯父達はこんな話を従姉や私たち兄妹におもしろおかしくしてくれました。しかしその後、本州から遊びに来た伯母が当時の話をしていたときに、「家に帰ってきたときいきなり泣き出してさ、話を聞いて家族みんなで泣いたんだよ。」と話してくれました。兵隊に行った伯父もいましたが、残った子供達も大変苦しい思いをしたのです。今は父も含めて4人の伯父はみんな他界しました。私のようにコピーの話、孫コピーの話で戦争が風化していくのは恐ろしいことですね。Img_8328

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